中華の歴史に残る名将の数々
更新日:2021-03-28 04:23:42 100152
孫武
孫 武(そん ぶ、紀元前535年頃 - 没年不詳)は、中国古代・春秋時代の武将・軍事思想家。兵法書『孫子』の作者とされており、兵家の代表的人物。斉国出身。字は長卿。孫臏の先祖。「孫子」は尊称である。
「戦わずして勝つ」という戦略思想、戦闘の防勢主義と短期決戦主義、またスパイの重要視など、軍事研究において戦略や戦術、情報戦など幅広い領域で業績を顕し、ベイジル・リデル=ハート、毛沢東など、現代の軍事研究者、軍事指導者にも重要な思想的影響を与えた。その軍事思想は航空技術や核兵器など、古代に想定できなかった軍事技術の発展した数千年後の現代においても有効性を失わず、今なお研究対象とされている。
廉頗
廉 頗(れん ぱ、拼音:Lían Pō、生没年不詳)は、中国戦国時代の趙の将軍。藺相如との関係が「刎頸の交わり」として有名。
紀元前283年、将軍となり秦を討ち、昔陽を取る。紀元前282年、斉を討ち、陽晋(現在の山東省)を落とした。この功により上卿に任ぜられ、勇気のあることで諸侯の間で有名となる。
白起(はくき)
白 起(はく き - 紀元前257年11月)は、中国・戦国時代末期の秦の武将。公孫起とも表記される。秦国郿(現在の陝西省宝鶏市眉県)の人。昭襄王に仕え、各地を転戦して趙・魏・楚などの軍に数々の勝利を収め、秦の領土拡大に貢献した。
紀元前294年、左庶長に任ぜられ、韓の新城を攻めた。
紀元前293年、左更にすすみ、韓・魏を攻め、伊闕の戦い(中国語版)で24万を斬首した。また、魏将公孫喜を捕え、5城を落とした。
紀元前292年、魏を攻め、大小61城を落とした。
紀元前278年、楚を攻め、鄢郢の戦い(中国語版)で楚の首都郢を落とした。このため、楚は陳に遷都した。同年、武安君の称を賜っている。
紀元前273年、魏の華陽を攻め、華陽の戦い(中国語版)で韓・魏・趙の将軍を捕え、13万を斬首した。同年、趙将賈偃と戦い、その士卒2万を黄河に沈めた。
紀元前264年、韓の陘城を攻め、陘城の戦い(中国語版)で5城を落とし、5万を斬首した。
紀元前260年の長平の戦いでは、巧みな用兵で趙括率いる趙軍を兵糧攻めに追い込み大勝した。このとき20万余りに及ぶ捕虜の兵糧が賄えず、反乱の恐れがあるとして少年兵240人を除く全てを生き埋めにした。
王翦(おうせん)
王 翦(おう せん、生没年不詳)は、中国戦国時代の秦の将軍。頻陽県東郷(現在の陝西省渭南市富平県の北東)の人。王賁の父。王離の祖父。秦王政(後の始皇帝)に仕えた戦国時代末期を代表する名将で、趙・楚を滅ぼすなど秦の天下統一に貢献した。
項羽(こうう)
項 羽(こう う、Xiàng Yǔ、紀元前232年 - 紀元前202年)は、秦末期の楚の武将。秦に対する造反軍の中核となり秦を滅ぼし、一時“西楚の覇王”(在位紀元前206年 - 紀元前202年)と号した。その後、天下を劉邦と争い(楚漢戦争)、当初は圧倒的に優勢であったが、次第に劣勢となって敗死した。
姓は項、名は籍、字が羽である。
項羽は、楚の将軍であった項燕の孫。項氏は代々楚の将軍を務めた家柄であった。『史記』では本籍を下相としている。叔父の項梁に養われていた。
参考
実績を残した名将